音楽の捧げ物
ヴァイオリン講師の田中郁也です。
今年も半分が過ぎました。
6月30日(土)最後の演奏はサンオークス倉敷という老人ホームでの演奏。
途中リクエストコーナーがありましたが、青い山脈や赤いリンゴ、石原ゆうじろうの何か…僕はすぐにメロディが頭に浮かばず、馴れてるピアニストは違うな~と思いました。
演奏後は倉敷市民会館で倉敷コンサートのリハーサル。
7月1日(日)。7月初めの本番は
大原聰一郎没後50年メモリアルコンサート。
モーツァルトフィガロの結婚序曲、ピアノコンチェルト「戴冠式」。フォーレのレクイエムを演奏しました。
大原聰一郎さんは、生まれ変わったら何になりたいかと問われると「音楽家」と答え、「音楽はたんなる趣味や教養ではなく、生きることの証」と言っていたそう。
プログラムより⬇
フォーレのレクイエムについて
古代ローマの共用語であったラテン語を普通に会話する人は、作曲された当時も今もいない。だからこそ、誰もが同じ距離感で純粋に音楽のもとに心を重ね合わせることが可能になる。バッハが晩年、ラテン語によるミサ曲に心血を注いだのも、言葉や宗教を超えた自然な心の動きにもとづく連帯を希求するがゆえだったのではないか。
フィガロの結婚について
王様も貴族も庶民も下僕も、みんな好き勝手に恋をして、好き勝手に人を傷つける。馬鹿みたいに嫉妬し、泣き、怒り、悔いる。コントロールできない自分がもどかしい。でも、それが人間。そして、ただの人間として生きようとすることに対し、神は生まれながらに何の階級も差別も与えてはいない。心優しきモーツァルトの「遺言」である。
3年後に迎える死の瞬間まで、モーツァルトは曲を書き続けることで「いま」を生きていた。
今この瞬間にうまれてくる音楽にじっと心を澄ますこと。モーツァルトにとってもフォーレにとっても同じことだったのだろうと思う。
良い音楽を聴きたくて、足を運んでくれた人達に芸術の懐でしか味わえぬ幸福と出会う「いま」の瞬間を1人でも多くの人に届けたい。音楽は、生きている私達のためにある。