沖縄・文教楽器 元社長の山川さん
山川さんが逝かれたのは、
阪神大震災の翌月でしたから 早や20年が過ぎたことになります。
あの沖縄戦の前後を沖縄教育界に身を置かれ、戦前は教職、戦後の復興
では教科書出版・教育楽器調達などに貢献され、のち楽器店経営を通して
沖縄の学校音楽教育進展に 大きな功績を残された方です。
爆撃で沈没した「対馬丸」の直後、教員として只一人41人の児童を引率、
生死さまよいながら「大進丸」で熊本へ学童疎開。2年を経て 全員無事
帰島させたエピソードなど、限りなく「沖縄史」を背負って生涯を送られた
方でもありました。一面、沖縄戦については全く語ることは無かった。
生前発刊された自分史「思いで」を今、読み直しても それは明瞭に記さ
れてはいません。余りに重い日々であったことを想像するばかりです。
六月は、いわば沖縄の月。
あれから七十年、山川さんから二十年の歳月が流れてしまいました。(HN)
HNさん ご無沙汰をしています。山川さんに対する思い、あるいは沖縄に対する思いが伝わってきます。私が山川さんから聞いた話で心に残っているのは、教育の実習か何かで、安城市に赴いたとき、受け入れ先の学校の方から、「沖縄から来るという事で、日本語が通じるのか心配をしました」と言われたそうです。憤慨するでもなく淡々と話をされましたが、その胸中は中々複雑なものだったのではないかと、今でもよく記憶しております。私が沖縄に家族と共に住んでいたのは、もう30年も前のことになります。沖縄もずいぶん変わったことでしょう。ただ、昨今のマスコミが取り上げる基地問題には、若干の違和感を覚えています。”沖縄の庶民は本当にそうなのかなあ”という程度のものですが・・・
HNさん 機会があれば、またお会いしましょう。